〒LOOP

わたしが考えている事を綴るはずだったのに、いつの間にかわたしが無限ループにはまる様を見ていただくブログになってきた。

人を愛するとき


さっき、同性愛に関する記事をよみました。
なんだか、サイエンス的には子孫を残せないから同性愛の結婚はだめだとか、それに対する反対意見などのやりとりを見ていたのですが、人間ってそんなに合理的にできているものだったかなぁと思いました。
だって、人間がみんな合理的だったことってそんなにないじゃないですか。
DARKER THAN BLACKというアニメで、契約者と呼ばれる超能力者が、よく契約者なら合理的な判断をしろ、ということをよく言われていました。そして、情に流されそうになると人間みたいだ、と言われていた気がします。ちょっと記憶が曖昧なので違ったらごめんなさい。
でも、合理的に判断をするってことは、やっぱりその中にある情を捨てるってことだと思うし、それこそ人間に与えられた感情や理性、その他様々な人間特有のものが無視される気がするのです。

というかそもそもこんなことよりも、好きになった人を否定する権利なんて他人にはないはずですよね。これは別に言論の自由だとかそんなんに基づくわけでもなんでもなく、ああ、それなら権利といってはいけないのかもしれないですけど、なんていうか、個人の恋愛に他人が関与するのが変な感じがします。

わたしの友人に、同性愛かもしれない人がいます。いや、たぶん男女とも愛せる人。
だからなんだって感じかもしれないけど、そばにそういう人がいて、その人のことが友人として好きならそんなこと言えない。

なんてとりとめもなく思ったのでした。


終わりを見つめる。


最近は考えることが少なくなっていたのでたまには投下しないといけないなぁと再確認しました。

さて、今日は介護の仕事をしていたときのお話。
全くその業界に対して知識のない大学生を、よくも採用してくれた、といまでは思います。
わたしがそこで何をしていたのかというと。
食事、入浴、排泄の介助、入居者様の居室の清掃、おやつの配布?、レクリエーション、記録などなど。
まず形式的なところから。
この、最後にある記録というものは、入居者の方がどのレクリエーションに参加したか、どれくらいご飯を食べたか、何時にどのような排泄があったか、などを記録するものです。これがまさに、観察日記またいなんです。でも、ある種観察日記よりもたちが悪い。そのときの入居者の様子、とかって書いてある欄には様子もなにも「○○レク参加。」とかしかないんです。様子と言えば「ボールを転がすのを楽しまれていた」とか「他の入居者様との会話が弾んでいた」とか、そんな感じだとわたしは思ってたのですけど。
わたしがいたところは慢性的な人手不足でした。
それゆえなのか、一人にのしかかる仕事の量が多く、入居者の方と満足にお話もできない。時には一人で、20人ほど入居されているフロアを見なくてはならないということも。排泄介助が必要な方ばかりではなかったのでそこは助かったのですが、一人でもたとえば排泄介助にうかがうのが遅れて失禁してしまっていて、その対処などをしていると次のナースコールが鳴り、首から下げたPHSというのか、小さな携帯電話みたいなので「すぐに行きますね」と呼びかけては他の階のケアスタッフに応援をお願いしたり、ときには応援すら呼べないまま失禁処理続きになることも。そのときの入居者様の顔を見るのが辛かったというのが一番大きいです。みなさん「ごめんね」「人様の手を汚して」なんておっしゃるんです。
認知症の方も多かったので、そういうことすらわからず、失禁したものをそのまま素手で触っていらしてぎゃー!ってなったことも多々あります。そのまま泥まみれになったことも(笑)

また、夜になると心細くなって部屋から出てきてしまう方もいました。
その方はいつも同じことを繰り返すのですが、とあるとき、わたしが「ここに来る前はどこにいらしたんですか?」と話を振ると、まるで認知症で同じことを繰り返していた方と同じ方とは思えないような口ぶりで「わたしは○○に住んでてね」なんてお話をされるんです。
そんなとき、わたしは昔国語の教科書で読んだ大安に住んでいた話をするおばあちゃんの話を思い出しました。おばあちゃんのは大安に帰ったんだよ、というようなセリフが印象的だった。
それを思い出して、いまこの方は○○に帰ったんだなあという思いに包まれて、なんだか泣きそうになりました。

認知症って、だれでもなり得るし、本当はとても身近で、いまのわたしにはそうなってしまうのが怖いという思いすらあります。

ある認知症に関するエピソードを聞いたことがあります。
AさんとBさんはとても仲良しでした。年をとってきても、まだまだバリバリ元気よ、と二人ともおっしゃっていました。
ある日、Bさんは携帯電話を手に、Aさんの部屋にやってきました。
「あのね、急に携帯電話の使い方がわからなくなってしまったの。孫に電話をかけるには、どうしたらいいかしら」
Bさんは驚いて、携帯電話の使い方を教えてあげました。
Aさんは満足そうに帰っていきました。そのあとから、認知症は悪化していきました。

友だちが認知症になったとき、どうするか。それよりも、身に迫ってくる実感がBさんにはあったんじゃないかと思います。

長くなってしまったけれど、最近終活という言葉がありますよね。
終焉に向かうための活動らしいですが、なんていうか、それをできるのも贅沢だなと思ってしまいますよね。認知症になったら、自分の意思でそんなこと、きっとできないんだから。


オススメの笑い方


なんとなく、いまの世の中はみんな、「おもしろいもの」を求めているように感じます。
それは一時、お笑いブームが巻き起こった頃と重なるかもしれないですね。
ともかく純愛物より、おもしろおかしいドラマやアニメが受ける時代になってきたように思います。

かく言うわたしもおもしろいものは大好きです。ドラマでいうなら勇者ヨシヒコと魔王の城とか本当に好きでした。いまはテレビをほとんどつけなくなってしまったので流行りのものに関する知識は浅いのですが…
そしてたまに、ふと笑いたくなってツ○ヤにいってはガキ使を借りて、一人で腹を抱えて笑うという日もあります。深夜に(笑)
疲れた気持ちや悲しい気持ちを吹き飛ばすには、笑うのって大事だなってそういうときに実感します。
なんていうか、硬くなった心をほどいてくれるというか。
笑いにはそんな力があるように思うのです。
あ、ちなみに映画は三谷幸喜さんの作品が好きです。特にオススメは笑いの大学です。あと、笑いたい時は「おもしろいgif画像」と検索して見ています。あれも腹を抱えて笑います。それ見てたらいつの間にか深夜だったり…

ツイッターやあらゆる情報サイトでも、面白いことはよく取り上げられますよね。まあ常識はずれなことは吊るし上げられていますが。

あれ、結局何が言いたかったんだっけ。
まあともあれ、笑いは大切だということかな…?オススメの笑い方を紹介します、みたいな記事になってしまいました。

ベビーカーvs通勤者論争。

よく通勤電車にまつわる議論がありますよね。
たとえば迷惑行為の話(うるさいイヤホン、新聞広げて読むなど)、ベビーカーの話、痴漢だってそうです。

人が多く集まる場所が電車社会になっていく以上、その話題が尽きることはありませんよね、きっと。

さて、どうしてこんな話をし出したかというと。
あるときネット上で、通勤の時間帯にベビーカーを乗せるな、という議論が起こっているのを見まして。
またその議論がわたしなりに気持ちの悪い終わり方をしていたのです。
下のは原文ではないです、わたしが記憶している概要です。

A「通勤の時間帯は混むのがわかっているのだから、ベビーカーを乗せるなどおかしい」
B「できるだけ避けたいと私も思いますが、仕方のないときだってあるはず」
C「混んでる電車の中であんなの迷惑行為だ」
B「でも、ただでさえ育児にお金がかかるのに、わざわざタクシーとかで行くのも嫌だし、やむを得ないときはいいじゃないですか」
A「子どもがかわいそうだ。あんな通勤電車は危ないし。小さな子どもを乗せるのもやめてほしい」
C「子どもとかは小さいから余計に危ない。だから通勤電車にベビーカーと子どもは乗せないでくれ」
D「いつから朝の電車は働く人たちのものになったんだ。我が物顔をしてあの時間帯の電車に乗っているサラリーマンこそおかしいじゃないか」

といった様子。
…本当にこんなんだったかな、あんまり覚えてないや(笑)
とにかくこんな議論は日常茶飯事なわけですよね。

わたしはどちらの肩を持つとも言えないのですが。
まずDには「みなが一様にお金を払って乗っている以上、どの時間帯であれ乗車する権利はみな平等だ」と言って欲しかったということ。
そして、ベビーカーや子どもをその時間帯に乗せるか否かで議論が起こるのは、いかにも大多数が我を通す権利を持ち得る日本の体質故かなぁとも思います。

多数決というのはわたしの一番嫌いなやり方であり、合理的であると世の中に認められている、いわゆる最も市民権を得ている決議の仕方だと思うのです。

この場合、一人でも多くの人を乗せたい、広く場所をとって欲しくない、という通勤者の思いからベビーカーを乗せるなという議論が起こるのだと思いたいのですが…いや、もっともな理由は「邪魔だから」というものでしょう。確かに満員電車は身動きが取れないので、幅を取るベビーカーが降りる妨げになってしまうということはよくよく考えられます。それにわたしもよくあります。また昼間でもベビーカーが入り口付近にいるだけでちょっと邪魔だな、と感じることもあるのだから混んでいる時はなおさらですよね。

ただ、わたしが言いたいのはその規制を人to人でやるべきではなく、鉄道会社がやるべきなのではないかということです。
どうしてかって、だって通勤者もベビーカーも、乗るのを許しているのは鉄道会社でしょう。
通勤者はベビーカーを乗せるなという文句を鉄道会社にするべきだと思うのです。鉄道会社がベビーカーを乗せるなといえば、それにはさすがに逆らいませんよね。そうすればまた、他のビジネスが生まれるかもしれません。ベビーカー、子ども連れ専用の公共交通機関だとか。専用列車だとか。
とても極端に悪い言い方をすると、ベビーカーの客からも、通勤者からも電車賃をほしいためにどちらもの同乗を許しているのだから。
だから、平等に権利を持っている者同士が争ったところで無意味なのです。

あ、別にこれはだから鉄道会社に文句を言いに行こう!というのを促す文章ではございません。
ただ、だからこそベビーカーと通勤者の睨み合いはやめましょうよ、という話です。





だいたいのアドバイスは妥協を勧める結果になる。


たとえば以前お話した就活の相談を受けたとする。
A「わたしは勉強頑張ってきたのに、就職できないんです」
B「つらいよね。あ、じゃあもっとアピールすることは他にないの?」
A「勉強を頑張ったので、勉強をアピールしたいんです」
B「うーん。でも会社が求めてない人材は取らないしね」
A「どうして会社は勉強してきた人を求めてはいないのですか」
B「まあね。そういう世の中だから仕方ないよ」

このような流れになるアドバイスってわりとありますよね。
相手が自分の想定外にいるときや、いくらなだめても諦めない時、妥協するしかないことをすすめる流れによくなると思うのです。
わたしはかなり、この妥協を勧められるタイプなのです。どんな人に相談しても、「そういう世の中だからねえ」「仕方ないよね」みたいな世間話になって終わり。

結局のところ、社会の大きな流れに流されるしかないというのが現状なのです。
それを甘んじて受け入れるか、壁にぶつかってしまうか。

わたしは、人に妥協をすすめるタイプにはなりたくないと思っています。
むしろ悩んでいる人には、多少リスクが高くても納得いくまでぶつかる方をおすすめします。妥協した方が楽だけど、それもなぁ、という人にはなおのこと、妥協するなんて馬鹿だ、くらいの勢いでアドバイスします。

誰もが妥協しなくてはいけない世の中は、変えなくてはならないと思うからです。
大勢に、小勢が押されるのは世の理ですが、その小勢になっても、せめて信念だけは持っていてほしいし、わたしも持っていたいと思うのです。
ある人が、美学を持って生きるのは、生き物の中でも人間だけだ、という旨の話をわたしにしてくれました。

それまでわたしは、理性という点が他の生物と人間との違いである、としか思っていませんでした。
理性は人間であるためにしてはいけない最低限のことを示すものです。
でも美学は逆で、人間である自分こそが、誇りを持って生きるためのものなのです。
なんていうか、表現に困っているのですが、理性は人間として最低限の感情、美学は人間のもっとも高次元にある感情だと思うのです。

だからこそ、美学や信念を持って生きて欲しいし、人間の中でも他人の誰とも違う自分というものを規定し、判別、確認できる感情だと思うから大切にしてほしいのです。

だから妥協なんて許さない。
とんがっていてもいいんです。大人になれば丸くなるというけれど、丸くなった分心の奥にとがりを隠しているくらいでいいです。丸くなったら負けとは言いません。その丸くなった姿はその人がいろんなことを経験して、いろんなことを考えて形成された自分です。否定できるはずもないですよね。

だからわたしに妥協をすすめるアドバイスはしないでほしい、という話だったのですが、妥協をすすめてくれるひとは、みんなわたしのことをよく考えてくれているひとばかりだということも、変えがたい事実なのです。
きっとその人は、世知辛い世の中とやりあうには、妥協という身を守る術を身につけた方が傷つかなくて済むよ、という気持ちで言ってくれるのですよね。
だから無下にはできないししたくもないです。

いつもこうやって無限ループするわたしの思考回路を止めて欲しい(笑)



理想の上司は悪い上司を並べると見えてくる。

 

わたしが考える上司のあり方とは、責任感を持ち、新人教育の仕方を常に見直すことのできる上司だと思います。

 

 
 
さて、いきなり結論で申し訳ないのですが、こんな話にたどり着いた理由として今日はわたしのアルバイト経験からお話したいと思います。
 
わたしはアルバイト先で、様々な社員の方の姿、あり方を見てきました。パートの方なのに長年やってるせいで店長よりしっかりしている人も。
 
その中から悪い例ばかりを引き合いに出して(笑)、まずは考察してみようと思います。
 
 
その1.パートさんに全部お任せ!俺はバイトと楽しくやれればいいやというお気楽上司
 
シフトも三週間前に出すという会社の方針を無視して前の週の木曜になってもまだ出ていない、ということも。新人教育はパートさんに任せっきり。店が暇だとバイトと喋りまくる。パートさんの心労が絶えなかったパターンです。
 
その2.会話はすべて「え?」と聞き直し、行動はすべてワンテンポ遅いが自分は出来ると思い込んで他人を非難する迷惑上司
 
文節で区切ってひとつひとつ確認しないと頭に入らないのか、言うことを一度では聞いてくれません。たくさんお皿を下げてきて急いでいる人がいてもその人が通る道を塞いでまでタイムカードを切る。そのくせ店長が悪いだのあの人はああだこうだ、と叩く陰口は一丁前。
 
その3.俺が知らないことはないようになんでも連絡しろ、だけど自分からは発信しないで「え?知らなかった?」という理不尽上司
 
この人はわたしも、かなりすくいよう救いようがないなぁと思いました。
店にやかましくて周りに迷惑をかける中学生の男子4人がいて、注意しにいったのはいいのですが、その子達にハゲ、リー○21と言われたことで気を悪くし、バイトに当たり散らして一時間早退してしまう有様(笑)
また、みんなが提出するシフトは無視が当たり前で「紙見せてください。ちゃんと書いてあるはずです」と言うと「紙はもう捨てた」としらばっくれる。また、メニューが変わる当日、店長からの連絡が何もなくて電話で確認をとると、知らなかったの?俺寝てたんだけど、と文句を言う始末。
足を捻ったのをいいことに、嫌なことがあると奥にこもって働かない。バイトが働いているのに自分だけさっさと帰る、など悪行は多岐に渡ります。
 
 
愚痴のようになってしまい大変恐縮ですが、この人たちみんなに共通しているのは前提部分です。人間としてどうなのか、というところ。
上司についてを論じる時、人としてどうなのか、をクリアしなくては、その肝要な命題にはたどり着けないのです。
ですがたとえこれが人としては許される行為だったとして。
どの人にも立場相当の責任感が欠陥しているというところはあるのではないでしょうか。
 
新人教育に関して、この三人はみな一様に怒る指導をしてきました。ピークの時間帯で店が忙しくなってくると苛立ち始め、動けない新人には怒声を浴びせる。
わたしは少しだけ教育学をかじったのですが、そこに存在するのは「生徒が身につけられなかった責任は、生徒ではなく教師にある」というもの。
自身の教育の仕方にはフィードバックすることなく、省みることなく、仕事を覚えられなかった新人が悪い。そのスタンスは、全員に共通していました。
それよりは、パートさんのように叱るには叱るけれど、後から「きつく言い過ぎたかな」と毎回悩んでいるような上司の方がよっぽどマシですよね。上の三人は、ピークが過ぎ去るとあっけらかんとしているのですから。
 
わたしが考える上司のあり方とは、責任感を持ち、新人教育の仕方を常に見直すことのできる上司だと思います。という結論は、ここから出てきたものです。
新人教育というのは、入社したての、上司や仲間に対してなんの偏見もない人たちに対して行う教育です。ですからその人たちへの最初の教育が、会社のイメージを決定するのです。第一印象とはなかなか拭えないものです。誰も味方がいない新人は、社内に頼るものがなく、厳しい指導を受けた翌日の出勤は気が重いはずです。ですがそこで、「きついこと言ってごめんね」「厳しいことばかり言って申し訳ないね。身につかないってことは教え方が悪いんだね」なんて一言が上司から聞けたら、この人の心はどれだけ楽になるでしょうか。
その言葉をかけてあげるだけで、勿論反省もして、その部下と関わっていくことができれば、部下は多少嫌なことがあってもついてくるのではないでしょうか。
人間だれしも、他人に見抜かれる欠点はあるものです。そこを見せると、厳しい指導をしたとき「自分だってできてないくせに」と言われるはめになります。だからこそ、自分にも欠点があることを部下の前で認めておくことが必要になるのではないでしょうか。
 
内容的にまとまりのないエントリーになってしまいました。
やっぱ上司の愚痴が言いたかっただけなのかな(笑)
 
その3の上司、いまの店長なのですが、中学生も身体的な特徴を言うのはダメだけど、それを真に受けるのもどうなのかな、大人として(笑)
 
 

甘えたくなった時に使う言葉。


わたしが自分に甘えたくなったときに使う、定型文があります。
「〜だからといってわたしが〜する理由にはならない」
というものです。
たとえば、夏場、アイスが食べたくなったとき。
「暑いからといって、わたしがアイスを買う理由にはならない」
といった具合です。
とてもストイックな人になります。
…少しわかりにくいですかね。
たとえば、仕事がうまく行かなかったときに
「失敗ばかりだからといって、わたしが仕事を投げ出す理由にはならない」
といった感じですね。
これが効くのは、わたしが理由や言い訳を探すタイプの人間だからです。
仕事を投げ出したのを他の人に見られた時、その人が納得するような理由や言い訳を伝えることができたら許してくれるだろう、みたいな風に、なんとか自分の株を落とさずに仕事を投げ出す方法を考える、みたいな。
こう書くとすごいゲスい人間に見えますね…(笑)

ですが、人間だれしも似たような感じはあるのかなぁと思っています。
言い訳をするのだって、本当は正当化の一種だと思いますし。
お菓子を他の子に取られた子どもが代わりにその子を叩いたら、必ず「だってお菓子とったから」って言いますよね。子どもの頃からそんな風に繰り返してきた正当化は、自分を甘やかすものであり、守るものでもあります。
だからそんな風にして、自分を守るのもひとつだけれど、どうしてもやらねばならないことは、この言葉で自分に鞭打ってやっていこうと、思うのです。

というお話でした。